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■下総 摩利支神社 (下総仮宮)
(「摩利支天神社」とも言います)
〒274-0801
千葉県船橋市高野台3丁目2番 10号
 → アクセスマップ
TEL 050-3778-5069
回線に I P電話を使用しており、お電話が繋がりにくい場合、間を置いて幾度かおかけ直し頂けますと幸いです。
■内拝殿の事前申込制について
現在は、武蔵宮建替え後までの仮の宮所として大変小さい敷地であり、多人数は入れず、事前申込制としております。
■外拝殿の一般参詣について
外拝殿のみ、ご予約は要りません。10時00分〜18時00分まで
下総摩利支天 (縁起)
■■■ 八木が谷城主 御息女姫君の信州飯田への疎開避難 ■■■
八木が谷城主の姫君の御一人が室町時代に戦乱を回避すべく、信州飯田に疎開したままその地でご逝去されたため、姫君が篤く御信仰なさっていた摩利支天様を姫君と一体としてお祀りしています。
千葉一族の親戚である八木が谷氏の居城、八木が谷城は落城したと伝え及んでおり、姫君は二度と下総の地に帰ることはなかったといいます。

信州飯田の大名家に着いた姫君は「わが娘の如く」大切にもてなされ、姫君亡き後、戦乱や転封・改易などで移転を命じられることもありましたが、飯田の分家にて代々受け継がれ、姫君が大切になさっていた摩利支天様と姫君を一体の神様(下総摩利支天)として、武蔵摩利支天と共にお祀りしてきました。

伝承に残る姫君の遺言から、八木が谷北辺のゆかりの地に一度は御帰還差し上げたいと、信州飯田の子孫の当社現総宮司の決行により、この地に当面の間(2021年から)お祀りをしています。
■■■ 武蔵摩利支天との関係 ■■■
信州飯田の地は戦国期でも比較的大きな戦に巻き込まれることもなく、(他に比べたら)安穏な地であったため、有名な武将も輩出しませんでしたが、このように比較的安穏な地のおかげで、飯田家と繋がりの強かった大名家は「我が愛娘を飯田の大名に預けたい」という動きがあったといいます。各地から飯田へ疎開してきた姫君らと、八木が谷の姫君は同じ境遇にて仲良くお暮らしになり、特に武蔵の姫君がとてもよく面倒を見てくれていたと伝わります。当時、戦国武将は「摩利支天」を信仰する者が多く、徳川家康公や前田利家公、毛利元就公も信仰していた記録がございます。ゆえに、諸大名の御息女にも同様の信仰があったと考えられ、このような結果に繋がったことが容易に推察されます。飯田の地は各地からの摩利支天という神が集まったおかげなのか、甚大な戦乱に巻き込まれることなく、江戸時代の太平の世を迎えることが出来ました。飯田に集いその地で亡くなられた各地の姫君と、姫君が信仰していた神様について、その死後に出身国にちなんだ御名前で祀られることとなりました。当神社および関連神社において下総摩利支天、武蔵摩利支天などと国名が付くのはそのためです。
■■■ 神仏習合との考察 ■■■
日本では古来より、明治の太政官布告(神仏分離令)までの間、「神仏習合」という祀り方が広く浸透していました。神道と仏教とが共存した日本特有の信仰の在り方で、当社のような「神社なのに仏教の神様(仏様)が祀られている」事例は現代でもかなり数多く存在してます。逆に「お寺なのに鳥居がある」事例も同様にかなり数多く存在します。
なぜ、飯田の大名家が「神社」としてお祀りしたのかは記録がありませんが、各姫君に御付きの女性たちが巫女として御世話したとも伝わり、そこが起源かもしれません。
■■■ 姫君の遺言 ■■■
八木が谷姫君の臨終に際して、遺言に「(自身を)絶対に各姫君と一緒に祀ること」を託したという。また、生前「いつか下総(八木が谷)の地を再び踏みたいが、もし叶っても武蔵姫らの所に必ず戻る」と決めておられたが、下総の地を生きて再び訪れることはなかったといいます。